明石の鯛と歴史上の偉人!将軍家・天皇家への献上品だった証
こんにちは、明石めで鯛やの女将です🐟
「明石の鯛は、昔は殿さまに献上されていたらしい」——明石ではよく聞く話でございます。
けれどこういう話は、どこまでが本当で、どこからが言い伝えなのか分からないもの。そこで今回、きちんと調べてみました。
すると——記録が、残っておりました。
明石藩が将軍家に何を納めていたか。京の宮家へ魚を届けていた網元の名前まで。年号も、史料も、はっきりと残っているのでございます。
この記事では、明石の魚が本当に献上品だったという記録を、史料をもとにご紹介いたします😊
1.「時献上」という制度をご存じでしょうか
江戸時代、全国の大名には幕府に名産品を納める習わしがございました。
これを「時献上(ときけんじょう)」と申します。
時献上とは
- 季節ごとに、その土地の名産を将軍家へ納めるという決まりごとです
- いつ、何を、どれだけ納めるかは、大名家ごとに決まっておりました
- 内陸の藩なら山の幸、海沿いの藩なら海の幸
- これは単なる贈り物ではなく、幕府と大名の関係を確認する儀礼でもありました
- 『大名武鑑』という、大名家の情報をまとめた書物に記録が残されております
つまり「うちの藩は、これが自慢でございます」と幕府に示す場でもあったわけですね。
さて、明石藩——明石松平家は、何を納めていたのでしょうか🐟
2. 明石松平家が、幕府に納めていたもの
明石は海沿いの藩でございますから、当然ながら海産物が中心でございました。
そして、その内容が記録に残っております。
| 時期 | 献上されたもの |
|---|---|
| 2月 | 飯蛸粕漬(いいだこ かすづけ) |
| 3月 | 塩引鰡(しおびき ぼら) |
| 4月 | 鯛粕漬(たい かすづけ) |
| 暑中(夏の盛り) | 鮮鯛(せんだい) |
| 7月 | 干蛸(ほしだこ) |
| 9月 | 懸塩鯛(かけしお だい) |
ご覧くださいませ。六回のうち、三回が鯛でございます。
そして残りの三回のうち二回は蛸。つまり明石松平家は、鯛と蛸を幕府への自慢の品として納めていたということになります。
明石鯛と明石だこ——今もこの土地の二大名物でございますが、その評価は二百年以上前から変わっていなかったのですね😊
3. 一年に六回、季節ごとに
献上の品目を、もう少し詳しく見てみましょう。
三種類の鯛
鯛粕漬(4月)
鯛を酒粕に漬け込んだもの。保存がきき、風味も増します。4月といえば桜鯛の季節。一年でいちばん姿の美しい鯛を漬け込んだのでしょう。
鮮鯛(暑中)
「鮮」——つまり生の鯛でございます。
冷蔵技術のない時代に、夏の盛りに生の鯛を江戸まで届ける。これは相当な苦労だったはずです。それだけの価値があると認められていたということでもございます。
懸塩鯛(9月)
塩を振って保存性を高めた鯛でございます。9月は紅葉鯛の季節。脂がのり、味がいちばん深まる頃です。
二種類の蛸
飯蛸粕漬(2月)
飯蛸(いいだこ)は、春先に卵を持つ小型のたこ。頭の中の卵が米粒のように見えることから、この名がつきました。
干蛸(7月)
明石だこを干したもの。夏はたこの旬でございます。半夏生にたこを食べる関西の習わしも、この季節のお話ですね。
春に鯛を漬け、夏に生の鯛を、秋に塩鯛を。
鯛の季節の移り変わりを、そのまま献上の暦にしている。これはなかなか味わい深いことだと思いませんか🐟
4. 献上のための、厳しい決まり
献上というのは、ただ魚を送ればよいというものではございませんでした。
たいへん厳しい決まりごとがあったのです。
献上にまつわる掟
- 鯛を獲る網は、藩主だけが持っていた 誰もが自由に鯛を獲れたわけではございません
- 鰡(ぼら)の網の数も制限されていた 献上の前になると、漁そのものが管理されたのです
- 献上が終わるまで、その魚の捕獲も売買も禁止 まず幕府へ。話はそれからでございます
- 漁期には葵紋付の幟(のぼり)を立てた 徳川家の紋でございます。これを掲げた船が優先的に漁をしました
- 献上品以外の魚は、漁民に分配された と考えられております
葵の御紋を掲げた船が、明石の海で漁をしている。
その光景を想像してみてください。ほかの漁師たちは、その船に道を譲ったことでしょう。将軍家に納める魚を獲っているのですから。
献上とは、それほどの重みを持った仕事だったのでございます😊
5. 鯛を献上する大名は、どれくらいいたのか
ここで、面白い数字がございます。
『大名武鑑』をもとに調べた記録によりますと、鯛を献上していた大名家の数は、時代とともに変化しております。
| 年代 | 鯛を献上した大名家 |
|---|---|
| 享保15年(1730)頃 | 約60家 |
| 文化元年(1804) | 122家 |
| 文政12年(1829) | 119家 |
百年のあいだに倍増しております。
それだけ鯛が「献上にふさわしい魚」とされていたということでございましょう。めでたい魚であり、姿がよく、味もよい。献上品としてこれ以上のものはなかったのですね。
ちなみに蛸を献上していたのは、記録上わずか2家(蛸と飯蛸)。百年を通じて変化がありません。
鯛を納める藩は百を超えるのに、蛸を納める藩は二つだけ。明石だこの希少さが、ここからもうかがえます🐟
6. 京の宮家へ|伏見宮家の「御用漁」
さて、明石の魚が納められていた先は、幕府だけではございませんでした。
京の宮家——伏見宮家にも、明石の魚が届けられていたのです。
伏見宮家の「魚類調進御用」
- 天明8年(1788)4月 明石の二見(現在の明石市東二見あたり)の網主が、伏見宮家から「魚類調進御用」を許されました
- このとき御用達の掛札と、裏菊紋付きの提灯が下付されております
- 寛政元年(1789)6月 絵付の提灯と、幟が下付されました
- 文久2年(1862)9月 傷んだため、掛札・紋付提灯・幟(白地と紺地の二種)が改めて下付されました
注目していただきたいのが「裏菊紋」でございます。
菊の紋は、皇室の紋でございます。それを掲げた提灯を下げて漁に出る——宮家の御用を務めているという証であり、たいへんな名誉でございました。
そして届けられた魚は、鯛、小鯛、鯖、鰯、鱧など。毎月の決まった魚に加えて、そのときどきの旬のものも京へ送られていたそうでございます。
明石の海から、京の御所へ。——これが記録として残っているのでございます😊
7. 網屋市良右衛門という人
この伏見宮家の御用を務めたのが、二見の網主「網屋市良右衛門(あみや いちろうえもん)」という人でございました。
記録に残っていること
- 天明8年(1788)、御用を願い出た
- 推薦したのは大坂屋周助という人物
- 御用を許されたことで、漁場の権利も得たとされます
- 二見の船が、周辺の海で盛んに漁をしていたと伝えられております
ここが面白いところでございます。
宮家の御用を務めるというのは、名誉であると同時に、実利でもあったのです。御用によって漁場の権利を得る。つまり「どこで漁をしてよいか」という特権がついてきたわけですね。
江戸時代の漁師にとって、漁場の権利は死活問題でございました。隣村との争いの記録も残っております。そんな中で宮家の御用という肩書きは、たいへんな強みだったことでしょう。
二百数十年前、明石の海で菊の紋の提灯を掲げて漁に出た人がいた。名前まで分かっているというのは、すごいことだと思います🐟
8. なぜ明石の魚が選ばれたのか
では、なぜ明石の魚が献上品に選ばれたのでしょう。
理由は、今も変わっておりません。
明石の魚が優れている理由
- 明石海峡の速い潮 潮に逆らって泳ぐため、身が締まって味が濃くなります
- 餌が豊富 エビやカニなどの甲殻類が豊富に育ち、浅いところは「天然の生簀」のような環境です
- 深みの栄養が海面へ運ばれる 明石海峡の独特の流れが、海の深いところにある栄養を海面まで運ぶと言われます
- 漁場が港から近い 獲ってすぐ水揚げできます
- 京・大坂に近い これも大きな理由でございます。消費地が近ければ、鮮度を保って届けられます
特に最後の「京・大坂に近い」——これは献上という点では決定的でございました。
冷蔵技術のない時代、どれだけよい魚でも、届かなければ意味がないのです。明石は、京にも大坂にも近い。だから生のまま、あるいは軽い加工で届けられる。
よい魚が獲れる海と、都への近さ。この二つがそろった土地だったからこそ、明石の魚は献上品になり得たのでございます😊
9.「磯の女王」と呼ばれて
明石の鯛には、美しい呼び名がございます。
「磯の女王」——。
なぜ女王なのか
- 薄紅色の美しい体 青い斑点が散り、気品があります
- 目の上の青い模様 アイシャドウのように見える、鯛だけの特徴です
- 堂々とした姿 形が整い、尾頭付きにしたときの見栄えは随一でございます
- 春は「桜鯛」 産卵前の鯛は体が桜色に染まり、縁起物として重んじられてまいりました
鯛を「女王」に例える。これは味だけでなく、姿の美しさが評価されてきた証でございます。
献上品というのは、味がよければよいというものではありません。殿さまや宮さまの膳に上がるにふさわしい姿でなければならない。
鯛は、その両方を満たしていたのですね🐟
10. 献上文化が、明石に残したもの
献上という制度は、明治になって終わりました。
けれど、そこで培われたものは残っております。
献上文化が残したもの
- 品質への厳しさ 「殿さまに出すもの」という基準が、土地の魚の扱い方を鍛えました
- 選別の目 どの魚がよいか、どれを出せるか。目利きの文化が育ちました
- 鮮度を保つ工夫 どうすれば生のまま届けられるか。この課題が、今の活け越しや昼セリにつながっております
- 加工の技術 粕漬、塩引、干物。保存しながら味を高める技術が磨かれました
- 誇り 「うちの魚は殿さまに納めていた」という自負。これがいちばん大きいかもしれません
特に加工の技術は、今に直接つながっております。
鯛粕漬、懸塩鯛——これらはすべて「よい鯛を、よい状態で届けるための工夫」でございました。
当店の鯛の昆布〆も、考え方は同じでございます。鯛を昆布で〆ることで水分を抜き、旨みを移し、味を高める。保存と味の向上を両立させる——これは、献上の時代から続く日本の知恵なのでございます😊
11. 今に受け継がれているもの
最後に、当店のことをお話しさせてくださいませ。
当店について、正直に
当店の鯛は、愛媛県産でございます。脂のりのよいものを選んで使っております。
「明石」という名は、明石の料亭で受け継がれてきた味づくりに由来する屋号で、魚の産地を表すものではございません。
なお、生鯛しゃぶには明石の焼き穴子を入れております。
そして残念なことに、近年は明石鯛も明石だこも、たいへん獲れなくなっております。海の状態の変化など、さまざまな要因が重なっていると言われております。明石の人でさえ、食べる機会が減ってしまいました。
だからこそ、獲れたものを大切に、一尾を余さず使いたいと思っております。鯛の頭も、あらも、骨も。献上の時代の人々も、きっと同じ気持ちだったのではないでしょうか。
12. まとめ
この記事のポイント
- 江戸時代、大名は「時献上」として季節の名産を幕府に納めておりました
- 明石松平家の時献上は年六回。うち三回が鯛、二回が蛸でした
- 献上されたのは鯛粕漬(4月)・鮮鯛(暑中)・懸塩鯛(9月)・飯蛸粕漬(2月)・塩引鰡(3月)・干蛸(7月)
- 献上のため鯛の網は藩主だけが所有し、献上が終わるまで捕獲・売買が禁じられました
- 漁期には葵紋付の幟を立てて、優先的に漁をしました
- 鯛を献上する大名家は、享保15年頃の約60家から文化元年には122家に増えました
- 天明8年(1788)、二見の網主網屋市良右衛門が伏見宮家の「魚類調進御用」を許され、裏菊紋付きの提灯を下付されました
- 京の伏見御所へは鯛・小鯛・鯖・鰯・鱧などが届けられました
- 明石の魚が選ばれたのは速い潮・豊富な餌・港からの近さ・都への近さゆえです
- 明石鯛は「磯の女王」と呼ばれ、味だけでなく姿の美しさも評価されてまいりました
「昔は献上されていたらしい」——そんな言い伝えが、年号まではっきりした記録として残っていた。
天明8年の春、菊の紋の提灯を掲げて海へ出た人がいた。葵の御紋の幟を立てた船が、明石の海を進んだ。そういう光景が、確かにあったのでございます。
鯛が「めでたい魚」として大切にされてきたのは、縁起のよい名前のためだけではありません。殿さまにも、宮さまにも、胸を張って出せる魚だったからなのですね🐟😊
【参考資料】
・明石市立図書館「明石 郷土の記憶デジタル版」所収『明石の漁村』より「献上された魚」「伏見宮家御用漁―京へ送られた明石の魚―」
・『大名武鑑』
・国立研究開発法人水産研究・教育機構 中央水産研究所図書資料館所蔵「大西秀市家文書」
・『播州東二見浦漁業の歴史』
・政府広報オンライン「Highlighting Japan」日本語版









女将のひとこと
調べてみて、正直なところ驚きました。
「昔は献上されていたらしい」という言い伝えが、年号も史料もはっきりした事実だったのですから。
天明8年、菊の紋の提灯を掲げて漁に出た網屋市良右衛門さん。葵の御紋の幟を立てた船。そういう光景が、この海にあったのだと思うと、しみじみいたします。
そして同時に、身が引き締まる思いもいたします。この土地の魚には、そういう歴史があるのだと。
私どもがお届けしているお品は、献上品ではございません。けれど「殿さまに出すつもりで作る」という気持ちだけは、持ち続けたいと思っております🐟